京都の歴史遺産
Historical heritage of Kyoto
竹の資料館から生態園の遊歩道に出てまもなく、池の上に「百々橋」(どどばし)が架けられています。
  この橋は、かつて京都市百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていたもので、応仁の乱(1467-1477)のとき、 細川家(東軍)と山名家(西軍)が11年にわたって戦ったその発端となった橋です。
もともと板橋でしたが、後に石橋に改築されたもので、昭和38年に解体され、 室町小学校に保管されていたものをこの洛西竹林公園へ移築されたもので、京都でなくては見られない遺跡の一つです。
百々橋
「百々橋」のたもとにはこの橋の由来を示す案内板が立てられていて、その前面にはその当時本当に使われていた橋脚石が置かれています。
百々橋の由来
宝鏡寺門前の東西の通りを百々の辻と呼ぶのは、平安時代からであるが、小川にかかるこの小橋がいちやく有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われてからである。
  応仁元年(1467年)5月、応仁の乱最初の大合戦にさいし、この橋には細川勝元は以下の三宅、吹田、茨木、芥川氏など攝津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と激しく戦った。
  ここから、南の方一条戻り橋付近までがその時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。 それから40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正4年(1507)6月23日澄之が香西元長(嵐山城主)、薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し、翌24日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。 澄元は近江へ敗走したが、8月1日には京都へ還り、澄之、元長、長忠を攻め亡した。
この小さな橋には、かくて戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれているのである。
  なお、明治40年(1907)に改築したもので小川が昭和38年(1963)に埋められ、石橋の貴重な遺構として現地に礎石を遺し、ここに移築したものである。京都市
石  仏
石仏
生態園の東南角の一段高くなっている台地の小さい広場には数々の石仏が安置されています。
  この石仏群は、織田信長が室町幕府最後の将軍、足利義昭のために築いた旧二条城(永禄12年、1569年) の石垣に使ったといわれる石仏で、現在の烏丸通・新町通・丸太町通・下立売通の2町四方のうちの烏丸出水ー丸太町間の390m にわたって石垣に使われていたとのことです。
  これを見ると、あの織田信長という人の性格の一面が理解でき、とても驚かされます。
  昭和56年に開通した京都市の地下鉄工事の際に発掘されたもので、これらの石仏の中には歴史上貴重な仏像もあるとのことです。
  石仏群の広場には白砂の場があり、その中央部に点在する飛び石をわたって拝観できます。 飛び石のそばにはこれらの石仏群の由来を示す説明板が置かれています。
  静寂な竹林の中にぽっかり空いた小さい台地に安置されている石仏はひっそりとその昔を物語っているようです。
説明板に書かれている旧二条城関係の石造物群
説明板
  ここに展示されている石造物は、地下鉄烏丸線建設に先だって昭和50年から53年にかけて行われた事前発掘調査により確認された旧二条城から出土したもので、主に石垣の石材に使用されていたものである。
  旧二条城は、永禄12年(1569)に織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭のために築造したもので、 烏丸丸太町交差点の北に位置し、発見された石垣には、自然石の他に石仏、供養碑、五輪碑、礎石、建材等が使用されていた。
当時日本で布教活動をしていたポルトガルの宣教師フイス・フロイスの著した「日本史」の中にも「信長は多数の石像を倒し、 頸に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民は、これらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生ぜしめた」 (松岡毅一・川崎桃太訳「フロイス 日本史」による。)という記載があり、上記の事実と一致する。これらの石造物は、従来あまりよく知られていなかった旧二条城の貴重な資料であり、 昭和58年6月1日に京都市指定有形文化財(考古資料)に指定された。